■オスマン帝国統治下のエディルネの都市形成-14世紀後半~16世紀前半を中心に

 <<目次>>

 1.はじめに
 2.ムラト1世の時代
 3.バヤズィト1世の時代
 4.バヤズィト1世の皇子たちの時代
 5.メフメト1世の時代
 6.ムラト2世の時代
 7.メフメト2世の時代
 8.バヤズィト2世の時代
 9.バヤズィト2世以降の時代

 (資料)図 19世紀末のエディルネの市域
  (資料)表 エディルネのキュッリイェ、モスクの収支簿台帳
 (主要参考文献


 1.はじめに

 エディルネという都市の歴史は、ローマ帝国時代にはじまる。西暦125年にハドリアヌス帝は、自らの名を冠したハドリアノポリス(=アドリアノープル)を建設させた。330年、コンスタンティヌス大帝がコンスタンティノープルに遷都してからは、トラキア地方の中心となって栄えた。アドリアノープルは、ビザンツ帝国の支配下にあっても通商の要地、外敵に対する防衛基地として重要な都市でありつづけた。

 オスマン帝国のスルタン・ムラト1世がアドリアノープルを征服したのは1362年である。征服当初の都市アドリアノープルの状態については、筆者の手許には情報がない。そのため、どのような状態からエディルネの都市形成が始められたかということについては触れられない。ここでは、征服後、どのようにエディルネの都市形成が行なわれたか、ということを見ていきたい。

 征服後、アドリアノープルはエディルネと称された。遅くともスルタン・メフメト1世の時代には首都機能を果すようになり、それはメフメト2世がイスタンブルを征服するまで続いたと考えられる。

 ここでは、スルタン・ムラト1世が征服した14世紀後半から、首都機能を果した期間、旧都となった期間を通じて、エディルネの都市形成を概観し、オスマン帝国における都市形成の一事例を提示したい。なお、本文中の(図 x)は、資料「図 19世紀末のエディルネの市域」に、(表 x)は資料「表 エディルネのキュッリイェ、モスクの収支簿台帳」に対応するものである。


 2.ムラト1世の時代

 ムラト1世は、サライ(宮殿)の建造を命じ、1365年に起工し、1368年に完成したことが知られている。場所はのちにセリミエ・モスクが建造された場所であった(図 1)。サライについての情報は以上である。このサライの建設のみを取り上げて首都機能の移転を論ずるのは尚早である。ブルサにも首都機能は残されていたと考えられる。

 ムラト1世はサライこそ建造したものの、同時代に建造されたと確認できる建築物を少数しか残していない。
 ①マルコチ・ベイ・モスク
 ②ヤフシー・ファキーフ・小モスクおよびハマム(浴場)
 サライは、のちのエディルネの中心部となる場所に建てられているが、他の建築物が建てられた地域とは離れた場所であった。サライ以外の建築物は、カレ・イチ(図 8)*地区に建てられた。

 *カレ・イチKale Ïçi:トゥンジャ川の湾曲内部の区画のうち西側部分にあたり、当時は城壁で囲まれていた地域を指す。東側部分はカレ・ダシュと称された。


 3.バヤズィト1世の時代

  建造が確認されるのは以下の建物。
 ①ハジュ・ドアン・モスク(ワクフ文書によると、店8舗、賃貸用の部屋3、家3、粉挽き場7、キャラバンサライ(隊商宿)1が運営に充てられた)
 ②フィルズ・アー・モスク
 ③セフェル・シャー・モスク

 また、バヤズィト1世はサライを拡張し、ハマムを併設している。この時代においても建造を確認できる建築物は依然として少ないが、都市の発展という観点からは興味深い点がある。それは、バヤズィト1世が、カレ・イチ地区のトゥンジャ川を挟んだ対岸に自らのイマーレット(救貧食堂)*を中核とした地域(図 26)を形成したことである。①②は、カレ・イチ地区に建造されたが、③はユルドゥルム(「雷光」の意。バヤズィト1世の異称)地区に建造された。市域の拡大、政治的な意味合いが強いサライ拡張に加えて、宗教・文化・福祉的な意味合いを持つキュッリイェ*の建設も行なった点が注目に値する。

 *イマーレットimâret/キュッリイェkülliye:広義には、モスクを中心としたメドレセ(イスラム学院)、狭義のイマーレット(救貧食堂)、タブ・ハーネ(客用宿舎)、病院、水道施設などの宗教的・慈善的動機で建造された施設と、その維持のための市場、キャラバンサライ、ハマムなどの収益を産む商業施設の複合体を指すが、ここでは狭義の意味で使用する。広義のイマーレットについては、ここではキュッリイェと記す。イマーレットを利用できたのは、メドレセの生徒、モスクなど慈善施設の職員、旅行者たち、貧者たちであった。貧者の基準については手許に情報がない。


 4..バヤズィト1世の皇子たちの時代

 バヤズィト1世が1402年、アンカラの戦いでティムールに敗北し、捕虜となったため、1411年にメフメト1世が即位するまでバヤズィト1世の皇子たちによるスルタン位継承争いが起こった。
 最初にエディルネを根拠地としたエミール・スレイマンが建造させたもので判明しているのは以下のもののみである。
 ①イェニチェリ用の兵舎
 ②エスキ・モスク(起工のみ)

 エミール・スレイマンの次にエディルネを根拠地としたムサ・チェレビーが建造させたものは以下のとおりである。
 ①エスキ・モスク(工事引継ぎ)
 ②サライの拡張
 ③ガージー・イブラヒム・モスク
 ④シェイフ・べドレッディン・ザーヴィイェ(イスラム神秘主義教団の修道場)
  (ワクフ文書によると、家35(3,500アクチェの賃貸料収入あり)、ブドウ畑(1,600アクチェの収入)が運営に充てられた) 
  
 ③は、カレ・ドゥシュ地区にはじめて建造されたモスクである。カレ・イチ地区(図 8)とユルドゥルム地区(図 26)のあいだが、これ以前の時代に全く開発されていなかったとは考えにくいが、ここではモスク以外の建造は進められていたが、この時点で初めてモスクが建造された、と考えておきたい。



  5.メフメト1世の時代

  メフメト1世は、いわゆる「空位時代」に勝ち残り、1413年にオスマン朝を再統一しスルタンとなった。オスマン朝全体のスルタンとしての治世は8年間と短いものであったが、バヤズィト1世時代と同程度の建築物(2小モスク、3モスク、ベデステン)を残した。
 ①エスキ・モスク(建築完了)(図 3)
 ②ガジ・イブラヒム・モスク
 ③ティムルタシュ・モスク
 ④サル・モスク

 ①についてはメフメト1世によるワクフ文書が残されておらず、メフメト1世がこのモスクのためにベデステンを寄進したことがわかるのみである。894-5/1489-90年の11ヶ月分の収支簿台帳から、35部屋、153店舗(靴屋、帽子屋、仕立屋など)の賃貸料、小麦粉の中央市場そばの土地賃貸料が収入源であったことがわかる。

 職員の俸給についても、イマーム(導師)に日給15アクチェ、ミュエッズィン(エザーンを告げる者)に日給4アクチェが支給されており、ブルサのイェシル・モスクではそれぞれ4アクチェ、1アクチェであったのと比較すると豊かであった。

 無名氏の年代記には、メフメト1世がエスキ・モスクを作った後、「ブルサでイマーレットを作らせた(略)そのときエディルネのカレ・ドゥシュに家々はなかった。これよりのちカレ・ドゥシュは都市となった」とある。この記述は820/1417-18年から824/1421-1422年の間のことと考えられる。しかし、前述のとおりムサ・チェレビーの時代に建てられたモスクがカレ・ドゥシュにすでに建設されており「家々はなかった」とは考えにくい。また、メフメト1世の治世末期には、特にカレ・ドゥシュ地区へと市域が発展したことは確かである。

 ②③はのちのイチ・シェレフェリ・モスク(図 2)が建てられる近辺に、④はのちのセリミエ・モスク(図 1)、ムラディエ・モスク(図19)が建造される地点の中間に建てられた。この時代にどの程度まで市域が広がっていったかを知ることができる。




 6.ムラト2世の時代

 ムラト2世の時代には、エディルネにおける建築物の数は飛躍的に増加する。その内訳は37小モスク、10モスク、6メドレセ、5イマーレット、9ハマム、6ハン(小規模な隊商宿)、メクテブ(初等学校)、ベデステン、橋である。規模の大小などもあって、一概に建築物の数のみで都市の発展を計ることはできないが、人々が利用する施設の増加と人口の増加の連関から見て一応の指標にはなると考える。
 
 ムラト2世の時代に建てられたもののうち主なものは以下の通りである。
 ①ムラディエ・モスク・キュリイェ(表 2)
 ②イチ・シェレフェリ・モスク(表 4)
 ③ダール・ル・ハディース・モスク(表 3)
 ④ベイレルベイ・モスク
 ⑤フィルズ・アー・モスク
 ⑥ガジ・ミハル・モスク
 ⑦メジト・ベイ・モスク
 ⑧ダール・ル・スィヤーデ・イマーレット
 ⑨サライの拡張
 ⑩新サライの建設

 ①~③はムラト2世が直接建造を命じたものである。
 ①は、ムラディエ・モスクを中心とし、その周囲にテッケ、メクテブ、イマーレットが配置されていた。ムラト2世によるワクフ文書は残されていないが、(表 2)から894-895/1489-90年の収支簿台帳によると、この年の収益は507,238アクチェであったことがわかる。
 ②③についても、(表 4)(表 3)の収支簿台帳から、それぞれ年363,636アクチェ、217,144アクチェと相当豊かな財源を持っていたことがわかる。

 ④~⑥は中規模なモスクであり、臣下が建造を命じたものである。
 ④は、ルメリ・ベイレルベイとなったシナヌッディン・ユスフ・パシャが建てさせたもので、メドレセ、イマーレット、ハマムなどが併せて建てられている。
 ⑤は、バヤズィト1世時代のフィルズ・アーとは同名異人であり、850/1446-47年に死亡しているフィルズ・アーが建てさせた。854/1446年のワクフ文書によると、ミュテヴェッリに日給15アクチェ、監査係に5アクチェ、修理係に5アクチェが支払われていた。
 ⑥は、初期オスマン朝を支えてきた名家ミハル家の一族であり、キョセ・ミハルの孫であるガジ・ミハルが建てさせた。イマーレットとモスクが併せて建てられている。
 
 ⑦⑧は比較的小規模なものである。
 ⑦は、830/1430年にルメリ・ベイレルベイのシナン・パシャがセメンディレを征服したのち、セメンディレ・サンジャクベイに任命され、845/1442年、ワラキア遠征においてワラキア君侯とヤノシュ・フニャディの軍に敗れ戦死したメジト・ベイが建てさせた。メジト・ベイはエディルネにモスク、イマーレットを建てさせた。その維持のためにハンとハマムを建てさせ、収益を維持費に充てた。890年には2つの村から4,554アクチェの収入が保証されていたことがわかっている。
 ⑧は、ゲブゼのカーディーで、のちサライに招かれ、ムラト2世の宰相となり、883/1478-79年に死んだファズルッラー・パシャが建てさせた。

 ⑨については、ウルジ・ベイが「エディルネにおいてエスキ・サライの中にキョシュク(園亭)を作らせた(835/1431-32年)」と記しており、また⑩については、854/1450年にはサライ・ジェディド・アミーレ、いわゆるイェニ・サライ(新サライ)の建設を命じたが、在命中には完成しなかったことがわかっている。

 ムラト2世時代においては、トゥンジャ川の湾曲内部に限って言えば、都市エディルネの市域は、19世紀末とほぼ同じ位に拡張された時代でもあった。これは、以下の地域にまで市域が拡がったことから知ることができる。
 a.ベイレルベイ・モスク(図 20)とムラディエ・モスク(図 19)の建設が見られるエディルネ北部
 b.カレ・イチ(図 8)とユルドゥルム街区(図 26)を結んだガジ・ミハル橋(図 10)の周辺地域(19世紀末のオルタ・イマーレット(図 10)周辺)
 c.ダール・ル・スィヤーデの建てられたエディルネ南西部(現在のエクメクチ・オウル・キャラバンサライ(図 16)周辺  d.メジド・ベイのモスク、イマーレットなどが建設されたエディルネ最南部(現在のキリシュハーネ地区(図 14)
 




 7.メフメト2世の時代

 イスタンブル遷都前と遷都後に分けて見ていきたい。

 <イスタンブル遷都前>
 イスタンブル遷都前のエディルネにおける都市建設事業としては、ムラト2世の遺志をひきついだ新サライの完成、があげられる。
 クリトヴロスはその様子を「同じ時期[856/1452年]に、メフメト2世はアドリアノープル[エディルネ]の都市から見てヘブルス川[メリチ川]対岸に壮麗なるサライを建てた。それは大理石で飾られ(略)周囲に庭が作られた。庭の中を動物、鳥、さまざまな心楽しきもので満たした。熱意をもって近くにスルタン一族の中庭を構築し、あらゆる方向からサライを守るため、中に新しく、騎兵隊、歩兵隊のために広大なる兵舎を作った。」と述べている。ただし、クリトヴロスがメリチ川としているのはトゥンジャ川の誤りである。

 <イスタンブル遷都後>

 

 8.バヤズィト2世の時代
 9.バヤズィト2世以降の時代



図 19世紀末のエディルネの市域Encyclopedia of Islam,2nd ed より一部改図)



1.Selimiye câmi(モスク)
2.Üç şerefeli câmi
3.Eski câmi
4.Bedesten(市場)
5.Ali Paşa câmi
6.Rüstem Paşa câmi
7.Sarïca Paşa câmi
8.Kale-Ïçi
9.Tahtakale hamamï(浴場)
10.Gazi Mihal köpüsü(橋)
11.Orta-Ïmâret(救貧食堂)
12.Dârülhasis câmi
13.Süleymaniye câmi
14.Kirişhâne
15.…
16.Ekmekçioğlu kervandarayï(隊商宿)
  (Ayşe Kadïn hanï)
17.Şeyh Çelebi câmi
18.Kïyïk semti
19.Muradiye câmi
20.Beylerbey câmi
21.At-Pazarï
22.Yeni-Saray
23.Bayezid Ⅱ. câmi
24.Yeni-Ïmâret mahallesi(街区)
25.Yalnïz-Göz köpüsü
  (Bayezid Ⅱ. köpüsü)
26.Yïldïrïm mahallesi


表 エディルネのキュッリイェ、モスクの収支簿台帳 

((作成中))

(主要参考文献)
・Ayverdi,Ekrem.Hakkï.,Osmanlï mimârisinde Ïlk devri:Ertuğrul,Osman,Orhan Gaazilar,Hüdavendigâr ve Yïldïrïm Bâyezid(630-805/1230-1402),Ïstanbul,1966
・Ayverdi,Ekrem.Hakkï.,Osmanlï mimârisinde Çelebi ve Sultan Murad devri(805-855/1403-1451),Ïstanbul,1972
・Ayverdi,Ekrem.Hakkï.,Osmanlï mimârisinde Fâtih devri(855-886/1451-1481),Ïstanbul,1973-4
・M.Tayyib.Gökbilgin,ⅩⅤ-ⅩⅥ.asïrlarda Edirne ve paşa livasï(15-16世紀のエディルネとルメリ州),Istanbul,1952

indexへ戻る